こんにちは!kammyです。
日本ではあり得ないシチュエーション
義理の母の同窓会に参加しました。
「同窓会」というのは少し大げさで、それほど改まったものでもありません。
そのとき時間のある同窓生と遊びに行くというような感じです。年齢は60歳手前。
実は以前にも、この「義理の母の同窓会」的な集まりに参加したことがあります。
だから、今回はそれほど個人的な“驚き”は少ないと思ったのです。
ただ、何かあるかもしれないと思い、二つ返事でひょこひょうと付いていきました。
「付いていった」と簡単に書きましたが、義理の母の同窓生の集まりに、その娘の旦那である私が参加するのはどうでしょう?
想像してください、結婚相手の母親の同窓会に参加するのを。
日本だったら普通はあり得ないですね(笑)
しかも、未就学の息子二人を連れて、です。
さらには、義理の母と私をつなげる妻も不在での参加です。妻は用事があって来なかったのです。
ますます日本では想像できない状況です。
このシチュエーションのあり得なさに、それほど違和感を覚えなくなってしまった自分が少し怖くもあります(笑)
「同級生と遊びにいくけど一緒に行く?」
その日、朝おきたときに義理の母がかけてきた第一声がこれでした。
日本人的にはあり得なくても、中国人的にはまぁありなのです。
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自由すぎる屋外カラオケ&ダンス
さて、今回もなぜかお寺で集まりました。
近くがちょっとした散策コースになっているので、またそこを歩くのかと思いましたが、どうやら違いました。
1つ目のお寺ではご飯を食べただけ。さらに、今回はもう1軒のお寺に行きました。
そこでの主目的は、お寺の参拝ではありませんでした。
なんと近くの広場的なところで、踊ったり歌ったりすることが目的だったのです。
お寺の脇にあるちょっとした広場。そこに大きめのスピーカーを運び込んで、歌ったり踊ったりし出したのです!
このスピーカーは以前も集まったときに公園で活躍したものです。
ブルートゥースでスマホとつないで、音楽やカラオケを流せるようになっているもの。
かなりの音量が出る優れもの(?)です。
屋外カラオケ&ダンスの始まりです。
今回集まったのは20名ぐらいでしょうか。
もともと40名くらいのクラスだったらしいので、参加率としてはかなり高いように思えます。
男性はカラオケ、女性はダンスをしていました。
特に踊り方が決まっているわけでもないようです。
好きなようにステップを踏んでいます。
また、歌っている男性もいますが、知っているところだけ歌ったりしています。
ちなみに全然うまくありません(笑)
そして、なぜか「北国の春」が2回連続で歌われていました。
この歌は中国でとても有名なのです。
でも、それも音程とリズムがものすごくはずれていました(失礼)。
上手い下手はどうでもいい話なのです。
その広場には、私が中国に惹かれてきた理由のひとつが広がっていました。
60歳手前の女性が、お寺脇の広場で、スピーカーから爆音で流れる音楽とともに、笑顔で、軽やかにステップを踏んで踊っている。
その姿を見て、私はなぜか涙が出てきました。
とてつもない「自由」をそこに見たような気がしたのです。
もちろん踊っている当の本人は、私が感動するほどの「自由」を感じているとは思えません。
あくまで“日常感覚の延長”として、お寺脇の広場で、同窓生と踊っているだけだからです。
しかしーいや、だからこそ、私はその姿に、日本では感じ得ないような「自由」を感じたのだろうと思います。
日本にも「自由」はあります。
しかし、それはここでの「自由」とはいろんな意味で違ったものだと思うのです。
日本には、晴天のお寺脇の広場で、爆音スピーカーで軽やかに踊る、60歳手前の女性の自由はないのです。
日本にあるのは、もう少し「制限された自由」な感じがします。
中国には、日本の“祭り”にあたるような「ハレ」が少ないとよく言われます。
文化大革命のときにそうした伝統的な風習が一掃されたのが主因のようです。
日本の「ハレ」や「無礼講」は、普段のたまった感情を解放する機能もあると思います。
ただ中国では「ハレ」が果たすそうした役割は、日常生活のなかで十分果たされているのではないか。
つまり、日常の中で、「ハレ」と「ケ」を分けるような必要があまり無いのではと思ったりします。
「ハレ」と「ケ」で精神的バランスをとるような生き方をしていないのではないでしょうか。
以上「ハレ」の話は、あくまで私の推測です。
ただ、広場で踊っていた同窓生の表情は、とても解放された笑顔のように見えました。
そしてそこには、春を思わせる暖かい日差しとともに、私を強く惹きつける自由の香りが漂っていたのでした。
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