こんにちは!kammyです。
小さなラーメン店での冷たい接客対応に感じた「解放感」について書いてみました。
冷たい接客なのに解放感?
小さなラーメン屋での一部始終
店に入っても、店員は私に見向きもしません。
椅子に座って手元のスマホをじっと眺めています。
小さなラーメン屋に入ったときのことです。
「重慶ラーメンをひとつ!」
少し大きめの声で伝えました。
普通の声だと店員は聞こえないと思ったからです。
日本人の感覚だと少し大きめくらいがちょうどいい。そうしないと声が届きません。
店員はちらっと私を見た後、奥の厨房に向かって「ラーメン一杯!」とだけ伝えて、再びスマホに目を戻しました。
その間、動いたのは口と首だけ、いや、まばたきもしたかな。
店内にいるのは私と店員のみです。
ほかの客はおらず、店員のスマホから流れるドラマの音が店内に響いています。
ラーメンが出来上がると、「ネギとパクチーはいる?」と聞かれたので、ネギは要らない旨を伝えると、出来上がったラーメンが運ばれてきました。
ラーメンを運び終えると、店員は再び元のテーブルに戻り、淡々と続きを見始めました。
ラーメンが食べ終わって一息ついたので、私は立ち上がります。
しかし店員は手元のスマホを見ているだけで、私には目もくれません。
仕方なくレジの方に行って支払いのためのQRコードを読みながら、「いくら?」と聞くと「8元」とだけ答え。
支払い完了の画面を見せると、店員は軽くうなずき、見ていた自分のスマホに再び目を戻しました。
「ありがとう」「お気をつけて」などの言葉はありません。
私も、黙って店を後にしました。
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中国ではいたって普通の接客対応
実は、店員の本業はスマホを見ることなのです!
というのは冗談にしても、そう思われても仕方ないように思えます。
日本と比べた時には、サービスの質に雲泥の差があるわけですが、中国ではいたって普通の接客対応です。
「おもてなし」という名のサービスは、ここにはほぼ存在しないといっていいでしょう。
そもそもお客さんの方も、高いレベルのサービスは求めていません。
「冷たい対応」の店員は、おそらく店主だったろうと思います(もしくは店主の親戚など)。
このサイズのお店だと、店主自らが店番をしていることが多いからです。
店主でこのレベルです。
これ以上冷たい対応というのも想像しづらいですが、雇われの身の場合にはより冷たい「極寒の対応」もあるかもしれません。
極寒の接客対応の一例
「極寒の対応」といえば先日、荷物を送ろうと配送会社に立ち寄ったときのことです。
伝票を書き料金を支払おうとしているのに、そこにいた3人の従業員はお昼ご飯を食べ始めたのです。
冷たい対応には慣れてはいるものの、ご飯を邪魔する立場になってしまった自分。
自分が客とは知りつつも、逆に遠慮してしまいそうになりました。
「これを送りたいからいくらか教えて。支払方法は?」
そう言えば、特に嫌な顔もせず対応はしてくれます。
ただ、日本のサービス業になれていると「お客がいるのにご飯を始めちゃいますかっ!」と思わず突っ込みを入れたくなってしまいます。
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ネット出前だと、サービスの質は関係ない
中国のサービス業の質は今後向上するのでしょうか?
大幅な経済成長が期待できない現状では、サービス業の競争もどんどん厳しくなるでしょう。
その結果、サービスの質全体が向上する可能性はゼロではないと思います。
ただ、飲食業についていえば、ネットで出前注文するケースがかなり増えています。
ここのブログでも紹介しましたが、ネット出前はかなり増えていて、上記のラーメン屋も私が食べている間に数人が出前を取りにやってきました。
日本の出前のように、そのお店の人が直接運ぶことは少なく、間に入った業者が配送を専門に担当します。
お昼時になると、宅配用バイクに乗ったお兄ちゃんたちが、小さなレストランに群がって注文ができるのを待つ風景によく出くわします。
出前になると、サービスの質は関係ありません。
実際、テーブルや椅子の準備はなく、お店は厨房のみ。
出前だけで商売をしているところも数多くあります。味と値段がよければ売れるのです。
その意味でどこまでサービスの質が向上するのかは未知数で、感覚的な話にはなりますが、私はそれほど期待できないような気がします。
冷たい対応に覚える解放感
いや、むしろサービスの質は向上しなくていい、とさえ私は思います。
普通の日本人であれば、今回のラーメン屋の対応は「極寒の対応」になりますが、慣れてしまえば案外「冷たい対応」もいいものです。
少し冷たいプールのほうが、慣れてしまえば泳ぎやすいような感じでしょうか。
いや、このたとえは少し違うか。
何にしろ言葉さえ伝えることができれば、望みのラーメンを食べることができます。
客と店員が、お互いに相手のことは気にしてないわけですから―今回の場合、私は細かく観察していましたが―、余計な詮索も生まれません。
たとえば日本であれば、こんなことを店員は思うかもしれません。
「なんで一人でラーメン食べに来たんだろ?」
「しかも昼3時とかいう変な時間に」
「なんでネギを食べないんだ、おいしいのに」
「頼むのは一番安いラーメンかぃ!せめてもう少し高いの頼もうよ」
まぁ最後のは中国の店員も思うかもしれませんが・・・笑
私は小心者で臆病なので、そういうことを店員が思ってるんじゃないかと気になってしまうことがあります。
実際は思ってないかもしれないけれど、そうかもしれないと気になってしまう。
とても些細なことではありますが、そういう経験ありませんか?
私にとっては、この気持ちの「探り合い」的なやりとりに―それは完全に想像上のものではあるのですがそれだけに余計に―、ときどき「疲れ」のような「窮屈さ」を感じることがあります。
中国にはそれがまったくありません。
だからなのか、妙な「解放感」があるのです。
冷たい対応に解放感を得る、というのも何かマゾ的な雰囲気を醸し出す結論ではあります。
ただ単純に、冷たい対応はそれはそれで気楽でいいなと感じたりする今日この頃です。
[…] さらに、先日のブログ「中国人の冷たい接客対応に覚える解放感」でも書いたのですが、「極寒の対応」にある種の心地よさまで覚えるようになってしまっています。 […]